町屋良平『青が破れる』は、第53回文藝賞を受賞したデビュー作です。
ボクサーを目指す秋吉と、その周囲にいるハルオ、とう子、夏澄、梅生。若い男女の関係を追う中で、身近な人の死が立て続けに訪れます。
この作品を読んで特に印象に残ったのは、三人の死を扱う距離感と、独特な文体でした。
文体には最後まで完全には馴染めない部分がありました。ただ、そこで単に「合わなかった」と終えるより、なぜ距離を感じたのかを考えていくと、死の描き方やボクシングというモチーフ、言葉の置き方が少しずつつながって見えてきました。
※以下、物語の展開や結末に触れます。
三人の死が、劇的な事件として扱われない
この作品で最も印象に残ったのは、身近な人が相次いで死ぬにもかかわらず、それぞれの死が過剰に劇的な出来事として演出されないことでした。
小説の中で人が死ぬとき、そこには物語上の大きな意味が与えられやすいものです。
人物が変わるきっかけになったり、物語の転換点になったり、読者に強い感情を要求する場面として配置されたりする。
『青が破れる』にも当然、死によって人間関係は変化します。
ただ、その死そのものは、もっと奇妙なほど日常の近くにあります。
誰かが死んだから世界が完全に別のものへ変わるのではなく、死んだ人がいなくなった世界を、残された人たちはそのまま生きていく。
私には、その描かれ方が「ぬるり」と日常へ入り込んでくるように感じられました。
悲劇を強く演出するのではなく、死が生活の中へ混ざってしまう。その距離感が強く印象に残りました。
悲しみが一つの形に整理されない
三人の死が続く物語でありながら、主人公の感情も「悲しい」という一語には収まりません。
人が死んだ直後であっても、別のことを考える。身体を動かす。誰かと話す。恋愛や欲望も消えない。
現実でも、人は重大な出来事の最中に、その出来事だけを考え続けているわけではありません。
大切な人を失ったとしても、腹は減るし、眠くもなるし、目の前の人間関係は続いていきます。
『青が破れる』は、そうした感情の不純さを無理に整理しない小説に見えました。
死を扱っているのに、登場人物たちが「死について語るための人物」にならない。
そのため、重い題材を扱っていながら、作品にはどこか乾いた感触があります。
ボクシングは必然なのか
もう一つ気になったのが、ボクシングです。
主人公の秋吉はボクサーを目指しています。
読みながら、物語そのものに対して「この話は絶対にボクシングでなければ成立しないのか」と考えると、私にはそこまで強い必然性は感じられませんでした。
けれど、だから不要だったとも思いません。
殴ること、耐えること、身体を鍛えること、才能の差を突きつけられること。そうしたボクシングの要素が、人物たちの不安定な生と並ぶことで、作品の輪郭がはっきりしています。
死や恋愛は形が曖昧なものですが、ボクシングには身体があります。
感情がどれだけ曖昧でも、パンチを受ければ痛い。練習をすれば疲れる。強い相手には負ける。
そうした極端に物理的な世界が横にあることで、登場人物たちの曖昧な感情がかえって浮き上がってくるようにも感じました。
物語上の絶対的な必然というより、この小説をこの小説らしく見せるための装置として、ボクシングはかなり有効だったのだと思います。
文体に距離を感じた理由
この作品の文体には、最後まで少し距離がありました。
漢字に置ける言葉がひらがなで現れることが多く、文のつながりにも独特の間があります。人物の感覚や会話が、一般的な文章の滑らかさとは少し違うリズムで連なっていきます。
私が馴染みきれなかったのは、内容そのものよりも、このリズムに自分の読み方がなかなか同期しなかったからだと思います。
ただ、その距離をそのまま文体の欠点と考えると、見落とすものもあります。
興味深かったのは、平明な言葉が続く中に、ときどき非常に印象的な一文や台詞が現れることです。
普段の温度が低いからこそ、一部分だけ熱を持ったときに、その言葉が急に鮮明に見える。
私には、この落差そのものが『青が破れる』の文体が生み出している効果の一つに感じられました。
最初に感じた距離と、その文体だからこそ生まれる表現の強さは、矛盾せずに同時に存在しているのだと思います。
短編「読書」を読むと、文体の見え方が変わる
文庫版には、表題作のほかに短編「脱皮ボーイ」と「読書」も収録されています。
その中では、「読書」の文章の方が私には入りやすく感じられました。
『青が破れる』に比べると硬質で、人物の心情を追う文章にも違った手触りがあります。
同じ一冊の中でこれほど文章への印象が変わると、「町屋良平の文体はこういうものだ」と一括りにはできなくなります。
むしろ、『青が破れる』ではあえて特定のリズムや語り方が選ばれていることが、よりはっきり見えてきました。
作品の文体と、作者そのものを同じものとして捉えない。そのことを一冊の中で改めて意識させられました。
距離を感じたところから、もう一度読む
『青が破れる』を読み終えて残ったのは、作品との距離をどう扱うかということでした。
文体には最後まで馴染みきれない部分がありました。けれど、その感覚をそのまま作品の価値へ置き換えてしまえば、三人の死を大きな悲劇へ仕立てず日常の中へ滑り込ませていく感覚や、ボクシングという身体的なものを曖昧な感情の横へ置く構成、平熱の文章の中で突然強く見える言葉を、十分に考えないまま終わってしまいます。
読書には当然、好みがあります。ただ、作品と自分が噛み合わなかったことと、その作品に何があるかは別の問題です。
距離を感じたなら、その距離がどこから生まれたのかを考える。そうすると、最初には見えなかった作品の輪郭が見えてくることがあります。
『青が破れる』は、私にとってそのことを強く意識させた一冊でした。